合子ケ作は、明治二九年から引き続き四か年も破堤があり、一粒の米も収穫できず、大凶作続きで部落民はただただ青色吐息であった。幸いにも信濃川改修の築堤工事があり、土工として働き、その賃金を得てようやく生計をたてていた。明治三〇年鷲巻村では中之口川赤渋堤防の破堤によって十数か村が湛水はなはだしく、そのために対岸の金巻村の堤防を切り払おうとし、双方数百名が現場でもみあった。これも警察の介入でようやく大事にいたらなかった。当時このような湛水排除をめぐる争いはいたるところで起きている。米の生産高をみると、郡では明治二八年に比べて、水害のあった二九年が三三%、三〇年が三八%の収穫しかなく凶作であった。水害に悩まされていた板井村壱番組では明治三〇年九月に次ぎのように定めを決めた。昨年の横田破堤により田畑の作物は皆無となつた。今年は西川の高山破堤の水害と虫害があった。わずかな収穫は百姓の一大事、生命の分かれるところであるとして農作物の盗難を防ぐため、一三カ所番小屋を設け三〇〇町歩の耕地を夜番は眠らずに見張る事。三年に一度は水害に見舞われる農民にとって、わずかな収穫でも大事にする気持ちがくみとれる。