横田切れ二

流れたり壊れたりした家屋が六〇〇〇棟余、死傷者は三〇余名であった。耕地は、二四〇町歩が荒れ果て、一万八〇〇〇町歩が浸水した。七月には信濃川筋ばかりでなく、刈谷田川、五十嵐川、西川、加茂川などの各支流もことごとく破堤して、県下の各地で水害が発生した。その中で横田切れの被害は県下で一番大きく、未曽有の大水害であった。当時の状況について新聞に掲載されている。八月五日午前七時汽船安進丸で新潟を発し大野に上陸し役場を訪うて戸井村長に合う堤下の民家水のあとを印す、高きものは軒に達す、役場また堤上の民家を借りて難を逃れる、今や張水五尺余を減ずといえども低い土地は床上一、二尺に及ぶ、備荒諸蓄金の救済を受くる窮民は百三十余戸ありという。小舟を傭うて役場を辞す舟県道の上を横断す、道上農家皆水中に在り、壁落ち軒傾き静として人影を見ず、左望すれば堤上数十の仮小屋あり皆災民の難を避くるなり・・・役場を訪う小学校の楼上に在り、楼下水深きこと三尺、梯子を屋外に架し之に由て出入りす、高潮の時は楼上を浸すこと八寸なりという。村長不在なり書記某に会い洪水中何事が最も惨なりしやと問う、いわく屋上に登り手救いを求めるものあり、舟を樹に繋いで難を逃れるくるものあり、水声、悲叫の声と相和し見る所、聞く所、惨ならざるなし何れを最とすべきものなしと。村中民家の流入するもの一戸倒壊するもの二四戸、小屋の倒壊するもの百余戸、救助を受ける窮民は千二百二五人・・・と当時の惨状を伝えている。

横田切れ二