山田島の東側の堤防が破堤し、濁流が流れ込み、堤防三尺以上も冠水した。濁流は家の軒口以上にも達し、小建物は流失するものもあり、その惨状は目もあてられないありさまで一番困ったことは、食事の煮炊きする場所がなく、やむを得ず水中に没した堤防の土を掘り取り、それを舟の中へ入れ、カマドをこしらえて炊事をした。次ぎのような体験記録が残されており、生々しい惨状がしるされている。明治二九年、三〇年の水害の状況が書かれている。まず明治二九年の水害について、ついに部落内に入った水は次第に増水して二階板上一尺五寸に達し、高地にある倉も床上一尺九寸を越えた。そのため俵物や衣類のほとんどが水浸しになり、居所さえなくなった。しかたなく俵物を船に積み込み、船の中で蚊に食われながら三晩も夜を明かし、二十五日にはついに年寄り子供は親戚にあつらえ、まさに死の苦しみであった。日本赤十字社にに提出した報告書がある。同書には、二三日朝八時すでに耕地全部、九時に宅地が水没し、一〇時に入り、夜九時軒下に達し、翌二四日午後三時まで水かさが増し、水量一二尺までになった。全家屋が没しわずかに棟を見るのみ、飲料水や食料が不足し、薬療も不十分で悲惨な状況である。郷内の末水地であるので、どこで破堤しても常に泥水を被っているが、今回のように百日以上の浸水は古老でも経験したことはない。と書かれ七月二二日早朝に横田を破堤防させた水が刻々と郷地に迫りくるさまがわかる。