横田切れ四

低湿地農業のため、各家ごとに一艘ないし二艘の田舟を保有していたため、田舟を利用して逃げたので溺死した者はいなかったとある。当時の地元の小学校の学校沿革史に、次のように横田切れによる被害の状況を記述している。明治二九年七月上旬より信濃川出水し、二二日に至り同郡横田村の堤防破壊し、二三日午前九時濫流校舎内に侵入し、二階下三寸まで浸水、本日より向かう一ヶ月間休業。同月二十六日暴風吹き起り、激浪打ち付け校舎大破、校具も流失し、残るものは二階の柱ばかりなり。同月二六日教員一名、学務委員二名連署にて、文部省へ被害の実情を具申せり、然れども受理すべき限り非ざる由を以て却下せられたり。九月八日頃より大雨にて信濃川出水し、横田村仮水戸第二回の破堤となり、学校床上一尺余まで浸水し、またまた休業となれり。同月一二日午前一〇時二〇分頃暴風吹き起、ようやく修繕を加えたる木舞を吹き破り、校具を流し再度の害をこうむれり。一〇月一五日またまた信濃川出水し、横田村仮水戸第三回の破堤となり。同月二四日校舎の修繕に着手し土台上げを始む。一一月一六日修繕床下りに着手せり。同月二〇日校舎の修繕落成し授業を始む。然れども水害につき、生徒は四分の一弱を減せり・・・・横田村の堤防は三回破堤したこと、学校は五ヶ月余も休校し、開校しても四分の一の生徒は欠席していたことがわかる。

横田切れ四