耕地整理前には低湿地の水を処理するための幾筋もの堀や江筋があった。各地の水田には縦横に無数の水路がはりめぐされ、それぞれ縦堀、横堀、集落を中心に、一堀、二堀、三堀などと名付けられていた。堀の幅は五〜六メートルのものを小堀と呼んだ。小堀は主に排水用に利用され、大堀は排水用の幹線であると同時に、苗運搬や田の往来に大切な水路であった。こうした水路で活躍したのが田舟と呼ばれる木製の舟で、人はもちろん、四月には苗代から苗を運んだり、九〜一〇月の収穫期には、自分の田んぼからハサ場まで稲を運搬し、乾燥すると自宅まで運ぶいわば、リヤカー、荷車、耕耘機や現在使用されている車のかわりにもなっていた。舟の大きさは舟底の幅約一メートル、長さは五、六メートルもあった。農閑期には子供が五、六人乗って遊んだものである。舟の呼び名は地域により多少異なっていた。鎧潟周辺では加茂合わせ、稲積舟、西川西部地方ではやち舟、田の中に入れる小型の舟をキッツオと呼んだ。当時、農家は働き手一人が田舟一隻持っており、一軒に平均三〜四隻はあった。したがって舟大工や鍛冶屋も各村々に一軒あり、舟一隻造るのに米一〇俵必要だったという。