越後平野はたびかさなる水害に見舞われていたので、江戸時代以来治水事業を行なってきた。明治前期には、大区小区や町村の行政単位で、堤防組合や水利土功会を結成し、堤防を改築し、排水路を堀り、川筋を整備した。しかし政府は市政、町村制の実施を契機に、明治二三年水利組合条例を制定し、水利組織と行政組織をわける、管理者は市長村長や部長であるが、構成員は市町村ではなく、土地を所有する個人とすることを決定した。新潟県は明治二五年八月一日からこの条例を実施し、各地に用水や排水に関する事業を行なう普通水利組合、水利のための土地所有者の任意的組織と水害を防ぐ堤防や川さらいなどの事業をおこなう水害予防組合、治水のため知事が権限をもつ強制的に設置つせうる組織を設立させた。江戸時代に潟や低湿地の排水路として新川を開鑿し、かつ西川に底樋を伏せて直接この地帯の湛水を海へ放流するため新川の恩恵を受ける五二か村が組合を結成し、新川及び底樋の維持管理にあたった。