明治四年七月、廃藩置県により新潟県となり、同組合も県の管理に移った。その後底樋の恩恵を受けるのは単に旧幕府の五二か村のみではなく郡一帯であるのに、五二か村以外の村々は組合に加入していない、したがってなんらの負担金その他の支出もなく、水災を免れているのは道理に合わないとして、最も利害関係が深い三潟近くの四〇か村組合に加入させ、組合の経費を負担させるように勧誘した。この主唱者は副区長萩野左門、高橋欣二郎で、当時この合同加入に反対する者も多く、いくたの障害もあったが、両者は断固として群議を排して奔走し、ついにこれを決行し、明治八年に九一か村をもって巻町始め九一ケ村水利土功組合を結成した。その後、底樋組合と改称し組合区域も一〇〇か村となった。明治二三年水利組合条例が公布され、底樋組合も条例にのっとって組織を改正することになり、いわゆる法人格を持つ組合とすることに決定し、明治二七年六月一六日に新川疎水普通水利組合を設立した。