団五郎江

明治三七年、村長から区域七一〇町歩組合員三一八名の水利組合設立につき具状書が県へ提出された。趣意はこの水路は天保期間さくの関渉八か字唯一の水路で、最近地形の変動もあり改良の必要があり、経費も従来協議費負担で年々多少の不服者を出したが支障がなかった。ところが明治三六年に前年よりも多少の経費を増したので、三、四の抱持地主が出金を拒絶し、若し事業を廃止できないなら取り立てるべき途を講じたらよいとした。年々七、八回の藻刈は欠かす事が出来ず、欠けばたちまち湛水害が発生するので、組合を設立したいとした。これに対し県は村一部事業でおこなうとし部長の論示があったが、申請側は年経費は一八〇〇円にもあがる。旧慣協議費では今は姑息の措置である時期へきた。一方日露戦争戦時下を過ぎれば進んで改良の段階となろう。団五郎江は対立の因となり村は混乱する。地租一円へ村税六一銭で水利費一部費賦課四一銭八厘を容れれば正租を超過し、違法となると再申請し、明治三七年八月設立許可となった。

団五郎江