地域の排水についての旧領分間の対立は深刻で、県内総務部長は郡長あて、関係地中利害反するものもありたとえ組合が成立しても、将来円満に事業の遂行ができるか、村一部費事業でやる必要がないか等を指導するが、事業の必要は急を要し、村一部事業として行なえば村会では公平の処決はみられないし、また既往の村費地価割は年々正租同額の負担で財政上も困難であるとする部長の具申で設立認可となった。明治三八年七月の豪雨は、この地域の湛水を畑地上三尺に高め、収穫皆無の惨状となった。このため議員は水路整備を急ぎ、総代との用地対価の調整も進んだが、上限四〇〇〇円とする額に議員内部の反対もあり解約となった。いろいろな問題が重なって組合内の事業推進者と、村内及び事業反対者は対立し、数十回の村長主催の協議会も実らなかった。排水の西川底樋通過は新川疏水普通水利組合に加入しなければならなかったが、明治三九年三月に編入された。そこで江筋測量に着手し、四〇年六月ようやく確定成果を得た。