新川の底樋により、郡の溢水の大部分は五十浜に吐き出されるのであるが、横田切れの時は、底樋の通水に収まらず、洪水の余勢は笠木、高山の中間の西川堤防、副堤防とも三本が倒壊し、激流は六地山に押し出して江丸、金蔵坂その他を崩し新川の川幅を広げた。明治三八年八月、豪雨のために郡内一面に溢水、湛水し新川の両堤防は水中に没し、高山地内は大海と化し、轟々として新川へ押し出す濁流は、西川の堤防と下流金蔵坂の砂丘を削り去った。この被害は横田切れに劣らないといわれた。県は大水害の後、西川流域は公共の利害得失にきわめて重大な関係があるので、明治三九年四月、西川に対し河川法を施行し、内野地内において、西川一部の河身を改修する付帯講じとして、新川底樋の大改造を施行することとした。新川底樋工事は新川疏水普通水利組合の事業であるが、西川と直接関係があるので河川法の規定によって、西川改良工事の施行とともに、県においてその改造を行なうことにしたのである。